「マンガが動いてる! 凄い!」
という小学生みたいな感想だけ覚えている。
そういえば主人公が黒人だが、そのあたりは特に意識せず観ていたことに今さら気がついた。
主役の色がこれまでと違う人魚姫と何が違うのか考えてみると(格ゲーの2Pカラーみたいに言うな)、そもそもマルチバースもので「いろいろなスパイダーマンが出てくる」のが前提のお話だからってところで受け入れていた気がする。肌の色がバキッと変わっていたほうがむしろ「いろいろ」の振り幅の大きさを感じられて好印象に映ったのかもしれない。彼“だけ”ではないんだ、みたいな。
続編はマンガが動く感じこそ薄まった気がするものの、もはや作画なのかCGなのかどんだけ手間暇かけて作ったのか想像もつかない映像が延々と続く。これを中高生のときに観たら他のアニメでは満足できない体になりそうだな、などと要らぬ心配をしてしまった。
あらゆる舞台にそれぞれ1人ずつ存在する彼らが一堂に会すると、コスチュームや造形が違うどころか、2次元のキャラも3次元のキャラも、現実の自分が映画館で観た俳優まで、同じ画面に収まる。そこが観ていてとても不思議だった。
彼らはお互いをどのように認識しているのだろう?
私はいま4次元の世界にいて(多分そのはず)、3次元や2次元のコンテンツを楽しんでいる。でも、もし対象が5次元、6次元……と高次元になっていったら、まず今ここにソレがあるのか無いのかすら分からない。
高次元の存在といえばスピリチュアルな話題にご興味のある方には身近なものかもしれないが、私にはソレを感じとることはできない。もし高次元の存在がホントにいるなら、なぜ私の人生をこうデザインしたのか問い詰めて一発ぶん殴ってやりたいくらいなんだが。
作中の2次元キャラが3次元以上のキャラを「見る」ことが可能なのだとしたら、スパイダー・ソサエティのテクノロジーって相当なものなんだろう。
そんな超凄いテクノロジーで集められた彼らだけれど、運命とか共通するストーリーに縛られている。逃れられないというか「変えてはならない」らしい。
映画じゃないけど『白鳥の湖』でジークフリート王子がオデットに愛を誓いながらオディールに心奪われるのだって、どの版でも変わらない。
観るほうはこの必ず訪れる不幸、王子が落ちる瞬間を、コレがないと始まらないよなぁ! と楽しみにさえしている。
その人生を歩まなければならない、同じ事を繰り返さなければならない人間からすれば堪ったもんじゃないだろう。
高みの見物してんじゃねぇ、と叫びたくなる時だってあるんじゃないのか。
マイルズ・モラレス君はそういう不幸を見て見ぬふりができなかったんだろうな、ヒーローである前に一人の優しい男の子なんだなと思った。
次回作も楽しみだ。
マハーシャラ・アリも出そうだし。
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